武田信玄はどんな人?
わずか21歳にして父親を追放し、家督を相続する
信長が弟と6年半にもわたり家督相続を争ったのとは対照的に、信玄は父親を強引に隠居させるという、なかば追放に近いかたちで甲斐国の領主になったのは信玄21歳の時だった。 NHK大河ドラマ『武田信玄』では、父親・信虎の追放は信玄単独による画策ではなく、甲斐国の将来を案ずる家臣以下の総意に基づいて行われたことが描かれている。
家康、秀吉、信長に匹敵する戦国武将
武田信玄は人材の登用と発掘において、人遣いの名手であった。人材の登用にあたっては、人の技量をよく見極め、能力にあった仕事を与え、その技能を余すことなく活用した。 金山の開発、信玄堤(しんげんづつみ)の大事業、甲州法度の制定など戦国武将として、軍事面のみならず一国を治める政治的手腕も一流で、その指導力は戦国時代の中でも群を抜いた名将であった。 また『人は城、人は石垣、人は堀、情けは見方、仇は敵なり』と信玄が詠んだとされる句の通り、戦国時代には一般的であった城は築かず、簡素な躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を生涯の居館とした。甲斐一国が彼の城だったのである。
破竹の快進撃
左図は武田信玄の最大版図である。怒濤の版図拡大は留まることを知らず、甲斐国の領主となってから一代で八カ国を領する戦国大名へとのし上がった。推定120万石と言われている。
その勢力範囲は、甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の東部・飛騨の東部・越中の東南部・西上野へと破竹の勢いで拡大した。
黄色の部分が武田の勢力範囲で、オレンジの部分は徳川である。
戦国時代の代表的な合戦 「川中島の合戦」
『川中島合戦図屏風』
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戦国二強の両雄が北信濃をめぐり、川中島で五度の決戦を挑んだ。足かけ十二年にわたってくりひろげられた合戦の中で、永禄四年の八幡原の決戦が最も有名である。 甲軍は軍師・山本勘助の「啄木鳥(きつつき)の戦法」、一方の越軍は甲軍の動きを察知し「車懸かりの陣」で襲いかかる。 この戦法が上杉側に悟られ、裏をかかれたことに山本勘助は責任を感じ、信玄本陣を守って命を落としたということになっている。
この合戦で、武田信玄は宿命のライバル・上杉謙信と川中島合戦で一騎討ちをしている。戦国時代にあってもこうした一騎討ちは珍しく、今でも有名な合戦の一つとして広く知られている。上左図は、上杉謙信が斬りこんでくるのを、軍配で受けようとする信玄の姿(図の左)である。
・川中島合戦
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唯一、家康を負かした武将(三方ヶ原の戦い)
『武田軍陣立屏風』
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西暦1572年(元亀三年)、上洛を目指す武田信玄率いる甲州軍団は、徳川家康の枕元を素通りして家康を挑発する。堪忍袋の緒が切れた家康は城を飛び出し甲軍を追走する。 甲軍は三方ヶ原にて180度方向転換し、即座に「魚鱗の陣」を敷き戦闘態勢に入った。網に掛かった徳川軍は逃げられず合戦になるが多勢に無勢で大敗。家康は命からがら浜松城に逃げ帰った。 三方ヶ原にて大敗した家康は生涯信玄との戦を教訓とした。若さと慢心を反省し惨敗の自分の姿(左図)を絵師に書かせ軽率な行動を戒めたのである。 家康は若い頃から名将・武田信玄を恐れながらも模範とし、甲州法度や甲州金、行動哲学・軍法から民治まで信玄に多くを学び、手本としていたことは有名である。 徳川300年の礎は武田信玄にありといってもいいだろう。
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